事務局便り

内灘の闘いは今の沖縄と結ばれている

 元・北陸鉄道労組

杉村雄二郎さん/竹子さんに聞く



『労働情報』919・20より転載

●松元千枝 

 「毎日が戦争だった。とにかくなにがなんでも座り込んだ」――
 ときは朝鮮戦争ぼっ発後の1952年。石川県の静かな漁村に在日米軍の砲弾試射場として内灘が候補地としてあがっていた。

 当時北陸鉄道社員で北鉄労働組合員だった杉村雄二郎さんは、試射場建設に反対する村民とともに座り込みをした日々のことを82歳になった今でも鮮明に覚えている。

 「戦後5年しか経っていない時期で、反米意識がまだ強く、日本がまた戦火に巻き込まれるのかという危機感がわいた。身の危険も含めて、絶対あのときの日本に戻してはならん、という強い気持ちがありました」

試射場接収に反旗

 金沢市に隣接する内灘は土地が豊かとは言えず、砂丘でナスビやサツマイモなどを育てるほかは、ほとんどが出稼ぎと地引網漁で生活を支えていた。そのため、男たちは国民学校を卒業すると同時に北海道や山口県へ、ほとんど一年中出稼ぎに行き、村には女性や子ども、そして高齢者が残った。

 第二次世界大戦が終結してからまだ間もない時期で、反米意識が強かったことももちろんだが、何よりも土地を接収されると地引網漁ができなくなり、生活に響く。また、砂丘が音を吸収するとはいえ、砲弾射撃の爆音のせいで精神に異常をきたすだけでなく、ニワトリが卵を産まなくなるといった影響についても聞いていた。

 やっと訪れた平和と生活を守るため、村民たちは団結した。
 戦争は終わったものの、まだGHQの占領下にある日本では、米軍のための武器製造・軍需産業が栄えつつあった。

 朝鮮戦争への加担は、「同じアジア人を対立させる」構図だとして、人々の反感をかった。
 にもかかわらず、村長が試射場建設について重大発表をした村民大会では、220名ほど集まった村民のなかに反対意見を述べる人はひとりも出なかった。そのまま散会しそうになった大会に「待った」をかけたのが、同じく北鉄の組合員で後に雄二郎さんの妻となる竹子さんだった。

 「活発な議論も、誰からの発言もなかった。参加者はおかか(主婦)たち。腹に持っていても何も言えなかった。発言するには勇気がいったけど、震える思いで接収には反対しなければいけないと言いました」と、当時20歳だった竹子さんは言う。

 内灘闘争が火蓋を切った。最前線には村のおかかたちがいた。出稼ぎで不在の男たちの分まで、子どもをおぶって座り込むおかかたちの勇姿は、色あせたモノクロ写真にいまも鮮烈に残る。

 竹子さんは、毎晩のようにみんなで議論し、村の青年団とともに国会議員へ陳情しに上京もした。
 県内外でも署名活動を展開し、駅頭で支援カンパを集めるうちに、「かわいい教え子たちを戦場に送るな」とのスローガンを掲げていた日教組も反対の声をあげはじめた。次に学生が立ち上がり、その他労働組合や宗教者など多くの支援者が集まった。

 村民や支援者は海岸に小屋を建て、試射場建設予定地まで続く砂丘に敷かれた鉄板道路に座り込んだ。団結の歌を歌い、ときに踊る。そこには「金は一年、土地は万年」とのスローガンが書かれた筵(むしろ)旗がはためいた。

 「当局側も最初は、(反対運動は)村民たけで終わる。踏み潰せると思ったんでしょう」と雄二郎さんは思い出す。
 敵は、村民の側に戦闘的な北鉄労組がつくこと、また同じように闘う組合が連帯することを計算していなかった。

 アメリカの占領下で反旗を翻すほど勢いがあったのは、当時の北鉄指導部が国鉄労組や全金など全国で闘う多数の仲間たちとスクラムを組んだから。「単に地元だけで盛り上がったのではなく、周辺にも共闘する組合があったからだろう」と雄二郎さんは思っている。

おかかたちの支援を決議
 
 北鉄組合員は、浅野川線で行商のために内灘、金沢間を行き来する浜のおかかたちから新鮮な魚をもらったりするなど持ちつ持たれつの関係にあった。

 そのおかかたちが試射場反対に動いたことを受けて、組合員も食料を持ち寄ったりして支援に駆けつけた。
 ところが、夜中の激論の中で村民から聞いたのはこんな切実な言葉だった――。

 「労働組合が本当に内灘を守る気なら、小松製作所では弾丸を作るな。北陸電力は米軍基地に電力を送るな、そして北鉄は浅野川線で米軍の軍需物資を運ぶな、と。
(内灘闘争50周年記念事業実行委員会『証言 内灘闘争参加者が見た想』)より)

 この村民の思いが、北鉄労組を命をかけたストライキヘと駆り立てる。
 北鉄労組は、1953年5月12日の組合委員会で浅野川線による軍事物資の輸送を拒否すると決議。6月14日午後0時から48時間、電車を止めた。

 「ストは労働者を一番団結させる行動。命をかける行為なんです」と、雄二郎さんは強調する。
 ストについては職場委員会で激論を繰り返した。

 問題は、ストライキやサボタージュは正当な権利として認められてはいたが、労働条件の維持や改善のために限られ、内灘闘争のように政治的な課題でのストは禁止されていたことだ。そのため、組合員のなかには慎重な意見もあり、報復行為や処罰を恐れた人やストの正当性を見出せない組合員も少なからずいた。
 
  

「みな腹の中では『電車を走らせるために働いて、そして賃金もらうために会社に行くのに、なぜ反対に電車を止めなくちゃならんのか』と思っていた組合員はたくさんいる」と雄二郎さんは笑う。

 北鉄労組は当時「幹部闘争から大衆闘争へ」という方針を掲げていた。「各職場で、5人組を組織し“裏切りがないか”なども含めてお互いの意見をあげていく。執行部からの指令は、職場組合員たちそれぞれの意見であり、服従は絶対だった」と雄二郎さん。

 組合幹部による演説や上位下達な決断と指令でなく、最終的には2千人あまりいた組合員から「よしやろう。反対ののろしをあげるんだ」という意見が一致したからこそ実現した、と雄二郎さんは振り返る。「委員長らにしてみれば大変な判断だったと思います」

 スト当日、電車は金沢駅構内に止め、それを一晩見張った。直前に東京では電車爆破の事件もニュースになっていたため、組合員の間に緊張感が走った。浅電の貨車に火薬はなく、基地で使う物資を載積しただけだったが、「これだけでも米軍、そして日本政府の沽券(こけん)にかかわった」と雄二郎さん。

 「地元のおかかたちは、『マッカーサーの怒りをかったら幹部もやられるのに、体張ってまでストを打ち抜いた』と高く評価してくれた」と誇らしげに語る。

96時間ストに突入

 そして再度、2日後に運ばれてくる小松製作所からの火薬4輛分を輸送拒否するため、7月11日から96時間ストに突入した。

 ところが2度目のことで米軍も対抗策を講じ、代わりに日通卜ラック14台で輸送した。「相手はこっちの足元を見ていたわけです」と雄二郎さんは話す。北鉄労組にしてみれば拍子抜けだったが、現地のおかかたちの間では、日通に対して「不信感が渦巻いた」という。

 北鉄労組に対して、会社からの報復行為や切り崩し工作がなかった。その同じ年にあった参議院選挙で、村を売った林屋亀次郎氏に対抗して立候補した北陸鉄道社長の井村徳二を、組合をあげて支持したからだろうと、杉村さん夫妻は言う。労使協定に関する団交の場では憎っくき敵同士だが、林屋に対する怨念の方が勝った。

 社長を辞めて当選した井村氏がそのあと「労組の言うことはよく聞かなあかんな」と認め、「そのあとの団体交渉はやりやすかった」と二人は笑う。

 北鉄労組のこうした力の源泉は何だったのか。「やはり日頃から培ってきた職場闘争と協約闘争の展開です」と雄二郎さんは語気を強める。「単にデモだけやっていてもダメ。ストを背景にして闘わないと」「最近の労働組合はストを打たない/打てない組合になってしまったのではないか」と二人は心配する。

“永久使用は阻止した”
 
  試射場反対運動は、最終的に村民側が条件を出し、その要求を政府がのむ形で終結。4ヵ月間の限定試用で試射場の建設を許した。組合員たちは交代で座り込んだが、おかかたちは子どもの世話も仕事もある中で毎日の行動に疲弊していた。

 「みんな疲れてしまったのかもしれない。ちょうど潮時だったのかも」と言う竹子さん自身も、毎日のように日中は座り込みに出かけ、夜は弟と二人で町会議員のところへ行って議論に参加した。組合活動にいそしんで会社へ出勤した日は数える程しかなかった。

 そんな竹子さんに対して母親や兄から咎められたことは一度もないそうだが、母方の親戚からはついに「お前いい加減にせえや。嫁のもらい手がなくなるぞ」と諌められた、と竹子さんは笑う。

 「『これや!』と思ったらのめり込む方だった」。婦人部長になった頃には、夜の団交に出席しなければならなかった。眠気を拭うため、会社の診療所で”奮する薬”をもらって団交に臨み、終わってからは睡眠導入剤をもらって寝た、という武勇伝も持つ。
 「毎日なにかと忙しい日々を送っていた」という竹子さんは、「何も悔いはない」と断言するほど平和を求める内灘闘争に身を投じた。

 「今、沖縄にもその流れができている」と竹子さんは思う。
 「もっと翁長さんを後押ししてあげなきやダメ。そして沖縄の人を支えて、みんながもっと関心をもたなきゃいけない」

 4ヵ月限定だった試射場は結局期限を超過して2年後に閉鎖した。苦しい選択ではあったが、雄二郎さんは条件闘争に切り替えたからこそ結果的に基地が固定されなかったのではと確信している。
 日本海を隔てて北朝鮮やロシアが近く、また大都市・金沢への便も良い内灘は、ともすれば自衛隊の演習場や米軍の基地として位置づけられていたかもしれないと二人は考える。

沖縄の光景と二重写しに

 内灘での自分たちの闘いと重なるのは、今の沖縄・辺野古の反基地闘争だ。基地建設地前の座り込みの光景は、内灘での光景そのものだ。

 「埋め立ての物資輸送にしても座り込みの抵抗にしても、沖縄県民が闘争をどう位置づけていくか。今のこの時代に、声をかけて運動を積み上げていくということができるか。それが問われているのではないか」と雄二郎さんは言う。

 内灘では、村民や北鉄労組だけでなく外部の学生や労組が団結したからこそ、それが大きな力となり、最後までやり抜いたという感が広がった。

 安倍政権下で推し進められる集団的自衛権行使や戦争法案などを受けて、「当時と同じような危機感と緊張感が走る今、若い人には他人事と思わずもっと戦争の悲惨さを感じて共感してほしい」と竹子さんは思っている。

 「自分と同じくらいの年齢の人が戦争に行って、青春も知らずに死んでいく――。あとあと幸せがもっとあったかもしれないのに、その人生をも断ち切られたことを考えて声をあげてほしい」
 内灘をともに闘った二人の思いは「今」に向けられている。

topへ戻る