●私鉄高退協便り


長米三郎さんを悼む
 元参議院議員 渕上 貞雄

 
 1月9日、娘さんから長米三郎氏の逝去を知らせる手紙が届いた。
すぐに井田隆重私鉄高退協顧問に連絡。「そう、昨年の11月15日だった」との返事。
大変お世話になった大先輩であり、あまりにも突然だったので、暫し呆然とする。
 長米三郎大兄へのご霊前に、謹んで哀悼の意を表します。

 長さんとは、わたしが地連書記長時代からの誼(よしみ)で、最初の出合いというか知ったのは、拡大中央委員会での長さんの演説だった。いまでもあの当時の論客たちの名調子を思い出す。古き良き時代の懐かしい思い出。その一人が、長米三郎さんだった。春闘決戦前で、興奮して聴いたものです。

 会議が終わった後の酒席で、飲むほどに酔うほどに、いつも肩を叩かれ、「オイ、コラ・フチ・なにやってんだ」と言ってお説教されたものです。今にして思えば、産別組織、大手・中小──特に中小組合の苦労話は、ひと味違っていた…。
 労働運動の経験も豊かで、百戦錬磨の戦いの歴史を持つ大先輩であり、若造で運動の経験も少ないわたしに対して、私鉄産別の組織を越えて、社会や人生論、付き合い方まで、含蓄のある話をよくしてくれた。多くのことを学ぶことができた。おかげでわたしの人生も、より豊になった。
 
 参議院福岡補選の直後に、「議員だから演説する機会も多くなるだろう。言葉は大切だ」と言って、二冊の本を贈呈してくれた。その時、長さんらしいなぁと思った。人を育てると言うことは、このような気遣い、配慮、振る舞いをするものだ、と教えられた。

  その時、珍しく奥さんの話をしてくれた。奥さんが女性運動の活動家であるとの話だった。長さんの運動の幅の広さや活動が豊富なのは、本人の努力もさることながら、奥さんの批判や情報・話題があってのことではないかと思う。
 夫婦であり、佳(よ)きライバルでもあり、佳き理解者でもあったと思う。

 私鉄総連主要闘争の交通政策を、産別組織として大きく前進させたのは、世界的にも話題になった「地域住民の足をどうするのか──バスシンポジウム83」の成功であった。

 そのシンポの原点は、運輸省(当時)がマイカーによる有償輸送(ポニーカー)を、岐阜県河合村で実験的に行なうと発表、私鉄総連の反対運動もあって運輸省は撤回する。当時、現地指導にあたっていたのが、中部地連委員長・長米三郎さんだった(シンポ企画:井田隆重)。
 当時の政治情況と現在のそれとの違いはあるが、長さんならばどう答えたであろうか。多分、原点に帰れ、と言うであろう。

 全交運(当時)主催による東欧交通事情調査に、私鉄から、長さんと渕上の二人が参加した。ベルリンの壁が崩壊する前で、東ドイツが変わって行く兆しを、街の風景から微妙に感じることができた。
現地視察日程の中に、夜の観劇会があった。劇の途中で、言葉も分からず少々退屈していた時、「フチ、外に出よう。集合時間に帰ってくればよい」と言って、街に出た。劇場のある場所だ。鉄の壁もあるはずだ。東ドイツのことだから、なにも無いだろうと思っていたが、あった。恐る恐る居酒屋風の店内に入ると、大歓迎を受けた。
 楽しい思い出と、長さんの粋な一面を見ることができた。酒と人生の楽しさを知った。

 体調を崩されてから、本人も奥様もご家族の皆さんも、大変な思いとご苦労があったと推察する。
 長米三郎さんの気力・好奇心の強さ・実行力に加えて、ご家族の皆さんのご協力、ご支援もあって、総力あげて発行されていた日毎のブログ=ホームページや短歌集『わかじちゃんの一日一筆』誌では、時折きらり撃ニ光る世相批判、時代や政治に対する風刺の作品に出逢うと、クスッと一人で笑って、「長さん、相変わらずだ」と楽しんだものだ。
 
 長米三郎さん大兄には追いつくことはできないが、気分だけは負けずに頑張らなければ、と思っています。
 今となっては、気合いを入れられることも話題を聞くことも、酒も、共に楽しむことができなくなりました。世の無情を嘆かずにはいられません。井田隆重君と二人で名古屋に行こうと言った約束もできなくなりました。残念。

 長米三郎大兄、長さん! 長さんから受けた教えは、わたしの人生の糧となり、終生忘れることはありません。

 願わくば在天の霊 安らかなれ                              合掌
 2018年1月15日
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