●私鉄高退協便り
内野勲雄さんを偲ぶ会
80人が昭島市市民交流センターに集う

はるばる福岡県から、渕上貞雄さんも駆けつけ


  2019年2月16日、都下三多摩の昭島市市民交流センターで、咋年12月下旬に急性白血病で急逝した「内野勲雄さんを偲ぶ会」が行われ、田野辺私鉄総連中央執行委員長ら80人が別れを偲んだ。福岡県うきは市からも元参議・渕上貞雄さんが来京、思い出を語った。

   「偲ぶ会」は、関東地連OB会会長・河合捷さんや地元市議・青山秀雄さん(みらいネットワーク)らが呼びかけた。私鉄総連関係では、委員長をはじめ元中執、新旧職員ら10名が参加、関東地連関係では滝沢委員長をはじめ元役職員、東京ブロック(バス)内労組の各委員長らが参集。自治労関連の地元友人も多数集まった。献杯の音頭は、河合さんがとった。

  内野さんは、1989年2月の参院福岡補欠選挙に渕上貞雄さんが立候補・当選した時の、私鉄総連本部の担当中執。選挙期間中の前後1ヵ月間を、福岡に張り付き役割を果たした。渕上さんもこのことにふれ、感謝を述べた。
 
好きなゴルフも、最後まで90台で廻り、「立川のオネストジョン」と言われるほどの飛距離を誇っていた。会場には、入賞写真も多数飾られた。


  田野辺私鉄総連中央執行委員長の弔辞

 内野勲雄大先輩を忍び、お別れの言葉を申し上げます。

 内野先輩の功績は、一言では語り尽くせぬものがあり、今日の私鉄労働運動の、土台を固める役割も担って来られたと、振り返ります。
 ロシアの思想家:トルストイが残した、「人生の唯一の意義は、人のために生きることである」という言葉のような、人生を送られたと思います。

 立川バス労組の執行委員長を皮切りに、現在の東京ブロックの前身である西ブロックにおいて、中心的な役割を果たす中で、1985年関東地連の執行委員を経て、1986年7月私鉄総連第51回伊東大会に於いて、中央執行委員に選出されて以降、6期12年の永きに渡り常に現場目線で、春闘・政治・交通政策に直接関わる役職を歴任されました。

 時代背景は、バブル景気から不況へと変化する時代。規制緩和が始まる前の時代でもありました。
 そして、何よりも阪神淡路大震災の対応に追われるなど、大きな時代のうねりと変化の中で、重責を果たし、多くの功績を残した大先輩に、あらためて敬意を表すると共に、哀悼の意を申し上げます。

 長くなりますが、内野先輩が総連本部に来た初めての春闘「87春闘」は、2万円の要求で、日経連からの賃上げより雇用の優先の攻撃を受ける中で、大手集団交渉:8社8組合を軸に、「賃上げ1万800円」を勝ち取り、続くバス集団交渉も大手並みの回答で解決するなど、経済情勢の後押しもあり、私鉄春闘をしっかりたたかった時でした。

 政治に目を向ければ、内野先輩が総連に来る7月の衆参同日選挙では、自民党が300議席で圧勝となりました。その後、当時の中曽根首相は消費税の前身である売上税導入を閣議決定。その後、消費税に名を変えて、導入を問う各地の補欠選挙では、自民党が敗北という結果でした。

 私鉄総連に来て3年が経過した、89年2月には、本日、お見えになっております私鉄組合員の誇りである渕上貞雄名誉顧問の初陣である福岡の参議院補欠選挙もありました。

 結果は勿論、自民党候補に19万票の大差をつけての圧勝でありました。
 内野先輩は、その後、渕上組織内国会議員と連携し、政治政策局長として、交通政策要求実現に向け、国や省庁などにも要請行動を行い、成果を上げてきました。

 私たちは、私鉄総連の運動をさらに前進させ、政治力を付け、交通政策の取り組みはじめ、公共交通を守る運動を、内野先輩から引く継いでゆくことを、お誓い申し上げます。

 あわせて、私鉄総連では、現在内野先輩の後輩にあたる、東京プロック:西東京バス出身の「もりやたかし」を必ず国政に送ることも、お約束申し上げます。

 私鉄組合員のために、人生を送らてた内野勲雄先輩のご冥福を、私鉄組合員を代表して、心からお祈りいたします。やすらかにお休みください。
2019年2月16日
日本私鉄労働組合総連合会中央執行委員長 田野辺耕一

 
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